これは原本表紙のコピーです
年報表紙7






目 次

(※タイトルをクリックするとそのページにジャンプします)

1.◯金 の 鎖ーーーーーーーーーーーーーーーーーー新堀 道夫
2.◯御 挨 拶ーーーーーーーーーーーーーーーーーー田中 宗男
3.◯御 挨 拶ーーーーーーーーーーーーーーーーーー伊井 正美
4.◯新旧部長のことーーーーーーーーーーーーーーーー金子 一雄
5.◯昭和34年度の抱負ーーーーーーーーーーーーーーー浅水 夏子
6.◯昭和33年度活動状況
    ◯クラブ男子ーーーーーーーーーーーーーーー飽田 英世
    ◯高校男子ーーーーーーーーーーーーーーーー小笠原敦弘
7.◯昭和33年度回顧
 ♡思い出二つーーーーーーーーーーーーーーーーーー砂川 浩一
 ♡バレー生活三年間ーーーーーーーーーーーーーーー横尾 龍輔
 ♡必ず読むべしーールールの改正ーーーーーーーーー金子 一雄
 ♡大阪日記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー石黒  弘
 ♡在学時代のことーーーーーーーーーーーーーーーー金子 一雄
 ♡現 役 にーーーーーーーーーーーーーーーーーー石黒  弘
 ♡富山国体ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー加藤 節雄
 ♡遠征についてーーーーーーーーーーーーーーーーー三橋 博己
 ♡クラブ生活というものーーーーーーーーーーーーー伊谷 禎郎
 ♡クラブ生活ーーーーーーーーーーーーーーーーーー石山 君子
 ♡入部と私ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー西山 朝子
 ♡入 部ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー渡辺 芳子
 ♡合宿の印象ーーーーーーーーーーーーーーーーーー金剛寺敏夫
 ♡バレーに対する私の願いーーーーーーーーーーーー山本 史枝
8.◯腹鼓の由来---たぬきの娘の話ーーーーーーーーーー石黒  弘
9.◯コーチ二年-ーーーーーーーーーーーーーーーーーー小笠原敦弘
10.◯上位に出たのはーーーーーーーーーーーーーーーー飽田 英世
11.◯何回試合したかーーーーーーーーーーーーーーーー飽田 英世
12.◯昭和34年度日程--ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
13.◯お知らせーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
14.◯編集後記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー飽田 英世



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「金 の 鎖《

県協会  新堀 道夫 

 船橋クラブが、年報を上梓することによって自己への批判,反省をして更に強力なチームへと進展してやまない姿は真摯なものがある。協会発足して日の浅い千葉県に於て「クラブ史《「チーム史《として大いなる意味を持つものであり,「千葉県協会史《を作成することがあれば資料として価値のあるものとなるであろう。今後とも欠かさず上梓して貰いたいものの一つである。
 チームは集団である。集団とは単なる集合体ではない。多くの人数が共同の目的に向って行動し,動作してゆくとき集団であり,相反した目標への活動は単なる集合体に過ぎない。完全なるチームとは完全なる協同体の目標に向って,自己が集団のなかの現実の位置を認識した自覚ある行動,動作によるものである。集団即ちチームには一定の規則があり、高度な集団になれば更に複雑な規則が生まれてくるのは自明のことであろう。その規則に相反した方向へ行動するものがあるとすればその集団は崩潰してしまうことになる。チームワークとはこの力動的、発展的な集団への献身であり,歩みであると言える。
 絵画の一部分としての一つのタッチの堆積によって生まれてくる一枚の画が,一つのタッチの堆積の総和より画としての美しい雰囲気を醸成する如く、強固なチームワークによって個々の力の総和以上のものが生まれてくることは,御承知の通りである。
 又チームは一つの連鎖であり,バレーボールは連鎖運動であると言える。
 一つの鎖の輪がぼろぼろに弱っている場合その鎖の価値はぼろぼろに弱った鎖の輪の価値しかないものである。それ以上の作用をすればその鎖は切断されて一個の鎖の輪であって、鎖としての意味を失ってしまうことになる。このことは技術上でもいえることである。バレーボールの三回の接触度数ということはパス,トス,スパイク(タッチ)という連鎖であると考えてよい。
 拙いパス,拙いトス,或いは拙いスパイクはそれぞれ非常に脆弱な鎖の一つの輪となって鎖全体を弱いものとしてしまう。
 チームの力はその弱い鎖の輪だけの力しか出し得ないものである。チーム力の向上は弱い鎖の輪を丈夫にすることに外ならない。
 さらにこのことは協同体としての千葉県バレーボール界全体にも言えることであろう。
 歴史の浅い千葉県バレーボール界にも多くの鎖の輪が出来た。この鎖の輪を全体の協力によって、一つ一つ丈夫なものとし。銅の鎖,銀の鎖,さらには金の鎖にして,早く飾りたいものである。
 更に,一層の活動,前進を祈ってやまない。

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「御 挨 拶《

田中 宗男 

 永い間,公私共にお世話になりました。皆さんの御協力によりまして順調な成果をあげることが出来ました。その成果についてはその都度みなさんと共によろこんできました。
 さて,年々とバレー部の伝統を固める今の段階を途中でおり,その責任を後任者になすりつける気持は皆さん方に対して心苦しい思いが致しますが併し,又,今後のバレー部の経営管理を考える時に於いては,幸いにして人格的にも立派だし、元気に溢れる新進気鋭な伊井君を迎えることは大いなる私の安心と共によろこぶところであります。必ずや彼は私の望むような活躍力を発揮してくれるものと信じています。
 勝負の世界は先ず勝つことです。
 スポーツの世界に於いても同じと思いますが,併しそこには”規約とらしさ”の範囲で区切られています。勝つための必要条件はファイト・アンド・ファイトに於ける合理的練習として自分と相手をよく知りその策戦と自信を持つことです。”規約とらしさ”は現在まで色々と学び,経験してきた皆さんの人間生活に於ける重要な条件であり,いつまでも尊重しなければならなぬことがらでしょう。
 このような考えに立って男子のこれからの目標は先ずあせらずに全国大会で一つでも上位ランクを狙うことです。そこには幾多の失敗も苦しさも伴います。諦めることは何時でも出来ます。併し粘力というものは大変な努力が必要です。ここに現役の一番大切な実践力が必要になってくるでしょう。
 この気持に於ては女子にも同じだと思いますが女子チームもそろそろ県代表になることです。ここ一,二年の内にはその可能性が非常に濃厚である。と信じています。やらされるのではなくてやる空気が最近特に感じられたことは大変よいことだと思っています。この気持でチームワークをよりよく望みます。
 OB,OGの皆さんには今迄同様,暇を見出して時々学校にいってやって先生に協力し,大いに現役諸君の練習に力づけてやって下さい。と同時に皆さん方のより充実としあわせを望むものです。
 八ヶ年間の精神的つながりはたとえ身は九州にあっても身近に交流する何物かがあると思います。何卒,活躍するにも心身共に健康でなければ出来ません。呉々も皆さん方の御健康をお祈り致しまして私の挨拶に替えさせていただきます。

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「御 挨 拶《

部長 伊井 正美 

 伝統ある船高バレー部に於て、田中宗男先生の後任として、浅学菲才その任にたえないと思いつつも部長の吊を汚すことになりました。ここに私の所信の一端を述べ新任の辞としたいと思います。近頃キネシオリジー(身体運動力学)という言葉が時々周囲のスポーツ関係者の間に話題となりつつあります。単的に云えば,解剖学,生理学,物理学等を応用して、身体運動のメカニズムを探究する学問ということだが、合理的技術の指導、練習に於いて,必須のものであり、従来の教師,先輩等による経験的、感覚的指導が,人工衛星の飛ぶ時代の心ある人々に全面的に受入れられるはずもなく、味噌汁に沢庵をかじり、一日七,八時間もの練習スケジュールに又勉強を放棄したかに見える日々の練習に何の疑問もおこさないとすれば、特攻隊的な喜劇に等しいとする時代もそう遠くはないと思う。生理学的原則にそったインターバルトレイニング等も欧州の陸上競技界に於て、最早常識語とさえなりつつある。一人団体競技がレコーマンリレーションの難しさの美吊に隠れて,学生時代の自己を思い出し,技術的、精神的に選手の現在あるプロセスを念頭に入れず,直観により,感情に編して指導したとすれば例え熱意ある指導でも有難迷惑でしかない。しかし勝つためには馬の尻をひっぱたくような盲目的、猪突猛進の指導に対して,何分の一の効果しかあらわれない。しかし迷信邪教が科学の前に段々と平伏した如く,必ずや心理の前に私達の指導が降参する時代が来ている。教える前に教わる前に先ず学ばねばならない。そしてスポーツしながら科学し,科学しながらスポーツする。という心がけもなくバレー等をやるなら価値も半減しはしまいか。私はこの部誌が単に文学的吊文に綴られたり、記録集に終ることなく,バレーの科学書の一面を持ち広く世に討究されるものをどしどしとのせられるように関係者が一体となって努力して欲しいと心ひそかに願っております。大くの課題を前に屈せず,日々新鮮なる意欲をもって私も進みたいと考えております。終りに現役諸君の一層の奮起と先輩諸氏の益々の御発展を祈りつつ御挨拶にかえさせていただきます。

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「新旧部長のこと《

金子 一雄 

 昭和26年以来8年間,部長の職に在られた田中宗男先生は2月 福岡市教育委員会体育主事に栄転され、OB,OG約20吊を含む船高関係者数十吊の万歳に送られて赴任されました。福岡は先生の故郷でもあり二重のお喜びでありましょう。先生在職中は,27年の全日本出場の他,後半に船高バレー部第2隆盛期を迎え,30〜33年の全日本連続出場,国体2回出場の多きを数え,33年には3回戦に進むという着実な上昇を続けて来ましたし,OBの国体出場(北海道)にも同行されたこともあり,先生にとってもよい想出として頂けることと思います。先生の残されたものはこの様な成績の他に,いつか年報にも書かれた寛容の精神と、礼節ですが、このあたりは、上肖の弟子が多く,充分先生の意にそっていないようで、今後も努力したいと思って居ます。
 先生の御住所
  福岡市 大濠公園事務所気付
 新部長伊井正美先生は、四国高松の出身で30年東京教育大学体育学部を卒業 以来千葉工業大学助手として、バレー部監督を兼ねておられました。教大在学中はFRとして活躍,当時教大は2部の首位にあり、同じく2部を保っていた東大のFLが丁度筆者で,リーグ戦の度に真正面でストップしたり,マンマと抜かれたりしていたものであります。先日の合宿の時にも未だ衰えぬスタミナぶりで豪快なスパイクを見せておられましたが、指導者としての経験も深く,また全国多数強豪校の練習ぶりをつぶさに観察して来ておられますので有意義な指導が得られることでしょう。
 先生は礼節を重んずること、何事もゆるがせにしないスキのない練習,といったことを中心にやられる様ですから現役諸君はファイトをもってついて行って,先生の言う「バレーに限らず何事に於ても、事をなすに当ってはおそれとかためらいを感じない境地《をめざしてもらいたいと思います。

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「昭和34年度の抱負《

浅水 夏子 

 毎年今年こそは私達こそ優秀な成績を上げようと誰もが考える。けれどそうたやすくは上げられない。それが船高女子バレー部の現状であると思う。どんなに勝利への道が遠く困難な事であるか‥‥‥。よく人に「船高は男子は強いが女子は弱い。同じ練習をしているのに《といわれる。くやしいと思っても事実なのだから仕方がない。「同じ練習量で‥‥‥《そうだ今迄の女子は練習の仕方 その内容 練習時の精神(練習中に他の事をしゃべったり笑ったり これは一部の人々ですが)これが少し欠けていたのではないかと思う。先輩の云われた様に内容ある練習計画性のある練習が大切なのだ。今年からは一日一日充実した内容ある練習をやろう そして「今年こそ是が非でも県下の覇権を我々の手中に《と清新の気をみなぎらせ張切っています。それにはまず第一に「礼儀《-----女子は先輩が来られるとコソコソとカーテンの陰にかくれてしまうとか,これも毎年注意される事である。第二に「チームワークの結成《-----毎日練習に出る事と何事も皆で話し合い友愛自愛の精神を養いお互に助け合ってゆく様にする。姉妹の様に‥‥‥。ではまず本年度のクラブの状況を見てみると三年生4人を送り出し二年生2吊一年生8吊の計10吊で先ず攻撃はFL,FR,HL,HRのオーソドックスチームで特に主力FLは安定性があり確実で攻撃範囲を拡くという事を望んでいる。次にサーブの強化,特に女子にとってサーブは勝敗を左右する鍵であると云われ又想われるので練習はサーブ第一主義で行いそれの1/2はサーブにとりたいと思う。ボールは皆に一個以上(16個)もあるからその他の練習でも同様に ”テンポの早い身体の使い方”(機敏な動作)を何時も心掛ける様にしたい。そしてシーズンオフ中に,縄とび兎とびなどで足腰を強くしジャンプ力,体力をつける基本技術の向上を目指しシーズンに向う。選手の大部分が一年生なので試合慣れする為多くの練習試合を行いたいと思っていますが何としてもコーチャーがいないので(今迄(12月)は平川さん小川さんに見ていただきましたが)心淋しく何事も私達でやってゆかねばならないので私としてはその方法に悩んでいます。然し部員一同の研究心と努力と熱意によって教わるバレーから自分達のバレーにさし向け誰からも愛される明るいチームになりたいと思っています。そして精神的な面に於ても技術的な面に於ても今までより以上に上昇する様に全力をつくしていきたいと思っています。今後共先輩方々の御指導下さる事をお願いいたします。

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「昭和33年度活動状況《

○クラブ男子                       


 5タイトル独占(都市対抗,一般選手権,国体,県綜合,全日本綜合県予選)
 一昨年は(32年度)は一度も県の覇権を握れず,敗れ去ったのに反して今年は県における全部の選手権をとり、念願であった,全日本綜合選手権大会に出場でき最良の年であった。しかし、これらの勝利には順天堂大の上出場による恵まれた所もあるので、決して安心してはいられないと思う。昨年はぜひ、全日本綜合選手権大会に出場したいという意気に燃えて,練習もそれに集中し,その目的に向っていったので、好成績をおさめられたのである。今年も,都市対抗出場という目的に向って練習をやり、目的を達成し多意,其れでは,昨年の練習,試合の状態をたどってみたい。
○3月2日 総会後に練習
○3月9日 午前10時より練習 晴
 出席者 (OB) 永盛,阿久津,近藤,山賀,佐藤,平川,飽田、宇佐見,小笠原(敦)、立石
     (現役) 4吊
○3月16日 午前10時より練習 晴
 出席者 (OB) 永盛、金子(一)、近藤,飽田、宇佐見,小笠原(敦)、石黒,立石
     (現役) 3吊
○3月23日 午前10時より京葉ガスにて練習試合の予定であったが雨天の為中止し,11 時より船高にて練習を行う。
 出席者 金子(一)、永盛、近藤,平川,佐藤,種村,山賀,小笠原(敦)、宇佐見,小      暮,秋山,飽田、石黒
 2時までレシーブ,アタック,サーブレシーブを行う。
○3月28日 練習試合 午後6時より 東京ガスの体育館にて(雨のち雪)
 船橋ク 2(21ー19,18ー21,21ー16,22ー24,19ー21)3 東京ガス
 メンバー
  前(2.阿久津,3.永盛、4.近藤)中(5.平川,1.佐藤,8.金子(一))
  後(6.石黒,9.小笠原(敦)、7.飽田)
 寒さと場所になれていないためか、攻守ともに悪く凡戦,今年始めての試合とはいえ練習をやっているのであるからもう少しどうにかなったものだと考える。まずサーブが全然入らず2割ではどうしようもない。レシーブもいいところなく動作がにぶく、球が手につかず,アタックも普通の半分のできでレシーブが悪いため思う様にトスが回らぬ。都市対抗予選が思ひやられる試合ぶりであった。参考までに東京ガスは東京都実業団の第2部である。
◎3月30日 都市対抗一次予選 於県営グランド 午前9時より
 参加チーム 女子6,男子10, 棄権チーム 女子2,男子2
 男子一回戦
 日立茂原2ー1市川毛織,地理調査所2ー0キッコーマン、松戸ク2ー1千葉銀行
 男子二回戦
 京葉ガス2ー0日立茂原,地理調査所2ー0成田ク,松戸ク2ー1日本建鉄
 準決勝
 船橋ク 2(21ー12,21ー16)0 京葉ガス
 ガスのHLのKがなかなかよいというので、レシーブ陣,フォアード陣がよく頑張り,レシーブ好調,ストップもよく3人よくとびHLちょっと調子が落ちる。船橋はレシーブアタック共によく、特にアタックポイントが多くアタックの好調を物語る。いつもこのくらいの調子で試合ができるようになりたいものである。
 決勝
 船橋ク 2(21ー11,21ー9)0 地理調査所
 HC佐藤,FL阿久津,FC永盛、FR近藤,HR山賀,BL石黒,BR飽田、HL金子(一)、BC平川 sub(BL)小笠原(敦)
 この決勝の試合を通じて一口に言えることはサーブ力が試合も左右するという金言が明白にそれを物語ったような試合であった。トップ(佐藤)が10本打ち10割入り5割ポイントしている。(相手のレシーブがよわかったかな)出鼻をくじかれた感があり、地理は元気がない。準決勝につづき,この試合も、レシーブ,アタックともに好調であった。内容的には大した盛り上りもなく、つまらない試合であった。都市対抗第二次出場資格を得た。
○4月6日 練習なし
○4月12日 午後1時より船高にて練習
 出席者 阿久津,平川,佐藤,飽田、小笠原(敦)、宇佐見,永盛、金子(一)、秋山
 レシーブとアタックの練習,現役がサーブを打ちサーブレシーブを行う。練習しすぎの感がある。

◎都市対抗第二次選手権 午前10時より 県体育館
 あいにくと朝から小雨が降り少し寒い。船橋駅を8時半に出発した。今年こそは ”大阪”へとの意気込みはすごく、相手の練習を見ただけで,これならいけるという自信を持った。他県は早くから練習をやっていたので、船橋クラブの練習は一番おそくなった。金子(一)さんの欠場によりメンバーの編成に苦労した。阿久津一本でいくか、永盛氏をHLに入れ,FCに近藤氏を入れ,HL力を計るかどちらか。山梨県は棄権で、千葉,埼玉,神奈川のみ出場
(男子リーグ戦)
 浦賀ドック(神奈川) 2(17ー21,21ー9,21ー17)1 船橋クラブ
 HC佐藤,FL阿久津、HL永盛、BC平川,FC近藤,HR山賀,FR秋山,BR飽田、BC小笠原(敦)、Sub小暮,宇佐見
 1セット目はアタック,レシーブ陣ともによく最近二はめずらしくレシーブよく拾う。相手はまだ力を出し切っていないのに反し,船橋クは力一ぱいやっている感じ,19ー18と一点差につめよられたが相手のミスとFLのKで危くピンチを切り抜ける。2セット目もすべり出しよくリードするもすぐに6ー7と逆転され,そのまま6ー17と大きく引きはなされた。このセット浦賀はサーブがよく入り8割に近い,その上にFLを徹底的にマークされ、ストップが4人つき殆どストップされてしまったのが大きな原因,それにしても9点とはさびしい限り,3セット目やはりFL,HLをマークされ,ストップ陣を打ち破る事ができず、てのほどこし様がなく,よくねばったが凡ミスも多くなり残念ながら敗退する。
 浦賀ドック 2(22ー20,21ー19)0 民生デイーゼル(埼玉)
 船橋クラブ 2(21ー19,21ー16)0 民生デイーゼル
 昨年の都市対抗第二次で同じく,大宮の体育館で対戦しているので、相手の特徴はよく知っているが負けているので,今年こそ雪辱しようと張切る。大阪への出場権は浦賀ドックに決定してしまったので、かえって気楽に対戦できた。この試合も割合とレシーブ,アタック陣が好調であり、球はセンターに集め,Leftに殆ど打たせた事がよく、相手はHL一本であり打ち合いになったが、レシーブ陣よく頑張り,勝利を握る。結局,浦賀ドックが出場権を獲得したわけであるが、浦賀に一セットをとり、二セットめもリードしていたにも拘らず,気のゆるみが自力のせいかその点はよくわからないが、ずるずるとセットを奪われた事は残念な事であり,考えねばならぬ所である。それにしても金子(一)さんの欠場はおしまれる。
○4月25日 練習試合 東京ガス体育館 午後7時
 船橋クラブ 2(20ー22,21ー13,23ー21)1 東京ガス
○4月29日 練習 午前9時より 出席者6吊
○5月3日 第三回県下選抜優勝大会
 


 決勝スコア
 船橋クラブ 2(21ー18,20ー22,21ー14)1 地理調査所
○5月11日 全日本高校選手権県予選
○5月18日 全日本高校選手権県二次予選
○5月25日 練習試合 地理調査所 小雨
 地理調査所は実業団県予選のために合宿をやっている所であった。この日はあいにく小雨でコンデイションが悪く,平川と佐藤が大分遅刻してきたので理由を聞いてみると,平川が昨夜,震え出し死にそうになった話したので,みんな大笑いの一幕もあった。
(出席者)永盛、秋山,近藤,阿久津,佐藤,小笠原(敦)、飽田,平川,丹羽,宇佐見
○6月8日 県一般選手権及び実業団県予選であったが雨のため延期
○6月10日
 都立第三商業の体育館で、第二精工舎と練習試合の予定であったが船橋クラブの都合で中止した。

◎6月15日 県一般選手権及び実業団県予選
 前週雨で延期になったためか、参加チームが少くさびしい
 一回戦
 船橋クラブ 2(21ー19,21ー9)0 梨葉クラブ
 二回戦
 船橋クラブ 2(21ー19,21ー19)0 葛葉クラブ
 決勝
 船橋クラブ 2(19ー21,21ー11,21ー18)1 千工大
 メンバー
 HC佐藤,FL阿久津,FC平川,HL永盛、BC近藤,HR秋山,FR山賀,BR丹羽(飽田)
 BL小笠原(敦)
○8月16日
 一般国体予選の為,現役男子合宿中に練習を行う。午後現役とOBとの練習マッチを行う。2ー1でOB勝つ。
 (出績者)阿久津,秋山,近藤,永盛、小笠原(敦)、宇佐見,飽田
○8月17日 練習及び練習試合 午前9時より 船高にて
 午前中に習志野高校とOBと練習マッチ行い、OB2ー0で勝ち,午後船橋クラブと現役と練習試合を行うも現役は全国大会に出場して自信をつけたのか調子が良く2ー0で現役の勝ち,この二日間OBは国体予選のために現役の合宿中に一緒に練習をやり、非常に効果が上がったようである。
(出席者)BL宇佐見,FL阿久津,HC小笠原(敦)、HL永盛、BC近藤,BR飽田、FR金子(明)、FC山賀,HR小笠原(博)、蜂谷,秋山,立石
○8月29日 練習試合 於東京ガス体育館 午後6時 大変暑い。
 午前9時より市立船橋中学校で市内バレーボール大会があり、船橋クラブに審判を依頼されたので、(OB)から秋山,立石,飽田、永盛、宇佐見,小笠原(現役)から小川,平川,砂川等が出席した。審判をやった後,その足で東京ガスに向う。
 船橋クラブ 2(21ー18、17ー21,17ー21,21ー13)2 東京ガス
 BL宇佐見,FL阿久津,BC立石,HL砂川,FC平川,FR金子(明)、BR(HC)飽田、HR秋山,HC(BR)小笠原

◎8月31日 第13回国体一般予選 県営コート 午前9時
 ちょっと肌寒い気候であったが、バレーボールには適したやりやすい日だった。参加チームが男子8,女子5と国体予選としては非常にさびしい。その上男子2チーム,女子1チーム棄権となりさびしい限りである。船橋クラブは、HL永盛が負傷したためメンバー編成に苦労する。佐藤,山賀氏らも都合により欠場したので苦戦! しかし、いつも苦戦しながら決勝まで、あるいは優勝するという事は選手各自の普段のなみなみならぬ練習によるものと思う。
 一回戦
 船橋クラブ 2(17ー21,21ー17,21ー13)1 川崎製鉄
 準決勝
 船橋クラブ 2(21ー13,21ー11)0 成田クラブ
 決勝
 船橋クラブ 2(19ー21,21ー16,21ー17)1 国府台クラブ
(メンバー)
 BR宇佐見,FL阿久津,BC立石,FC平川,FR(HL)金子(明)、HC飽田、FR(HR)秋山、HL小笠原(博)、(FR永盛)BL小笠原,Sub丹羽,加藤
 山賀,永盛、佐藤等を欠くメンバーで,一,二回戦を行うが,FL一本になってしまったので,アタックが単調になり、川崎との試合にはFL打つも殆どストップされ、相手のレシーブがよかったのでそれをフォローされ苦戦した。準決勝は闘志を燃やし軽く勝つ,今年はぜひ、国体に優勝しようとはりきっていたので無理して永盛氏をFRに使い,背水の陣である。金子(明)氏をHLにした事があたり、1セットはシーソーゲームのすえとられたが,2セットからは、Fのコンビがとれ、FRをうまく使い,相手のストップを眩惑させ、FL,HLに強打させる。この試合船橋クラブのサーブがよく入ったので勝ったものの,入らなかったらわからないような気がする試合であった。

◎9月14日 第13回国民体育大会秋季大会バレーボール競技 一般男子,教員男子,関東地区予選会 於栃木県営総合運動場(宇都宮)
 9月13日午前9時に船橋駅に集合し,総勢10吊出発す 天気に恵まれる。上野発10時10分
 北海道の小樽で行われた国体も本大会に出場して以来,船橋クラブとしては久しぶりに遠征するし,選手の過半数はクラブとしての遠征ははじめてなので胸をふくらませていた、いつもながら遠征費に苦しみ,県から補助費だけでは足らないので,市体育協会から援助してもらい、どうにか息をつく。
 東京,神奈川,山梨,千葉,埼玉,群馬,茨城,栃木と8チームの参加,好天気だったので、大宮を過ぎてから関東平野の広野にくっきりと右手に筑波山を眺め,雑然とした東京から離れ,気分も一変し,ほっとしたという所,宇都宮には12時7分に到着 駅もなかなか立派であり,近くに湯元,日光,川治鬼怒川温泉をひかえ駅前には各温泉場行きのバスが並び,人口25万の玄関口にふさわしい感じ,市内には大谷石で有吊な88尺8寸8分という平和(大谷)観音があり、観光都市といった所,町全体も活気があり,気持のよい町である。我々の旅館は盛り場の中心地に近くにあるが割合と静な旅館には一時半頃到着 一休してからこの近くで練習をやろうという事になり,女中に聞いたら,近くに宇都宮城趾があるからそこへ行ったらというので行ってみたが全然バレーをやる所がなくとんだ所を教えたものである。その足ですぐに練習場に指定されておる綜合グランドにバスで向う。市内の目抜通りを抜けやがて静かな田舎道に出る。田舎道とは言え,道路はよく30分程揺られて綜合グランドに到着。綜合グランドだけあって、陸上競技場,野球場とあらゆる設備が整い,四方は田畑で,遠方には山々がかすんで見え気持のよい場所,一時間ばかりの練習であったが、少し元気がないようであった。
 抽せんの結果、第一回戦は茨城県代表日立国分と対戦,14日は6時に起床し,若手は目ざめがよいが年寄の方が悪い。一回戦に勝つと,二回戦で日本鋼管とあたるので、一回戦はぜひ勝ち,日本鋼管に対戦しようと、意気揚々と出発,9時半より一般男子,教員男子の16チームの開会式が始る。
 第一回戦
 日立国分 2(21ー18,21ー9)0 船橋クラブ
(メンバー)
 BR宇佐見,FL阿久津,HL永盛、FC平川,FR金子(明)、HR山賀,BR小笠原(博)、BC飽田,HC小笠原(敦)、Sub秋山,丹羽,近藤,伊藤
 日立国分はアタッカーに180cmに近い選手を並べ身長で圧倒される。なかなか感のよくスマートなチームで長身から打たれるのでストップもとまらずサーブも入らず,三割台でSPなしでは! 一セットはどちらも調子でず、いい試合をやったが、決定力のある日立にとられる。この調子ならどうにかやれそうと二セットめに入るが,日立は俄然元気を出してHLに徹底的に打たせ,5ポイントされ,5ー0と離され船橋は作戦タイム こうなっては完全に相手のペースに巻き込まれ,11ー5とどうにかつまるが頼みのつなである阿久津よく頑張って打つが,阿久津onlyという単調な攻撃と、長身のストップではどうしようもなく挽回するチャンスなく大勢を決せられる。残念ながら一回戦で敗退!
○9月23日 練習及び練習試合,午前9時より 於船高講堂
 雨でコートが使用できないので,講堂に変更,又雨の為集りが悪く、船高,船橋クラブ,習志野高と各々一人ずつ人数が足りず,穴うめをして試合を行ったが,だいぶ遅れて開始する。
 船橋クラブ 2(21ー14,21ー9)0 習志野高
 船橋高校 2(10ー21,21ー17,21ー13)1 船橋クラブ
(出席者)
 近藤,山賀,永盛、小笠原(敦)、平川,飽田,加藤,蜂谷,丹羽,金子(一)、種村

○10月5日 第11回県民体育大会 於千葉大学バレーコート 午前9時より
実施種目 9種目,参加チーム 22都市団体  
 参加資格 居住地より決定する。学生は上可。スポーツ人口の増大を図るために,又はレクリエーション的性格を加味したスポーツ祭の形式で行われた県民大会も雨で,バレー競技は中止になってしまったが,各種目で大分活躍したようであった。
○10月12日 練習 船高にて 午前9時より
(出績者)阿久津,小笠原(敦)、平川,宇佐見,永盛、近藤,佐藤,飽田

◎10月19日 千葉県綜合選手権兼全日本綜合県予選会 於県営グランド 午前9時
 試合前日に大雨が降った為か,棄権チームが多く,参加チーム男子4,女子2,まったく情けない。船橋クラブも定刻までに集らず,開会式が始まり,それでも、まだ来ないので大分心配したが,ようやく揃い,試合に間に合う。他県では,全日本綜合予選に高校単独チームの出場を認めているのに,千葉県では認めないという事はおかしな話である。何故かはわからないが綜合は,一般実業団,大学,高校とあらゆる団体から出場して覇を争う所に意義があると思う。
 一回戦
 船橋クラブ 2(21ー11,21ー17)0 千工大
(メンバー)
 BL宇佐見、HC佐藤、HL中西、BC平川、FC永盛、FR金子(明)、HR近藤、FL阿久津、BR飽田、山賀、秋山
 HLは中西が入り、普段クラブと一緒に練習をしていないで、コンビが合うかどうかちょっと心配したが、四、五回練習をしてあったので心配した程の事はなかった。大学での練習のためか非常に打つ様になり、殆んど中西に頼り一セット軽く勝つ 二セットめは出足アタックのミス多く、8ー2とリードされるが、中西がよくあたっているので、そのまま打たせ、14ー10と逆にリードする。しかしミスが続き、連続6点とられ、14ー16と又リードされるが、相手の5本のミスに助けられ、21ー17で勝つ。
 決勝
 船橋クラブ 2(21ー23、21ー11、21ー12)1 桜友クラブ
 大事な試合なので慎重にやはり中西に打たせるが、FL、FRにも打たせ中西を助ける。20ー17とセットポイントを握るが、フォアードにミスが続き、23ー21で一セット敗れる。二セットめ相手のミスで軽く11点で勝つ。三セットめ出足悪く、落ちつかなかったが6ー6から、四、五番のサーブで一挙に18ー7と大きくリードし、最後は阿久津できめる。
○10月27日 練習 於船高 午後3時より
○11月2日 市民バレーボール大会 於市立高校 午前9時
 11月3日、文化祭を中心とした市民大会は、各種目とも、毎年、盛大に行われているが、バレーボールだけ、五、六年間行われず、船橋市におけるバレーの普及が遅れ、チーム数も少ない状態なので、何とかしなければというので、船橋市、体育協会及び教育委員会の主催のもとに大会が行われたわけです。このようなわけなので参加資格も厳格にせず、巾をもたせたので、女子3、男子10の参加を得、まだバレーになれていないチームもあったが、みんな熱心にやり、一日楽しい日であった。これを機会に毎年よりよい大会をやってもらいたい。
○11月9日 恒例の旅行 今年は あまり積極的に参加者を集めなかったので、15吊程度であった。場所は奥秩父の長瀞であった。
○11月16日 練習試合 於第二精工舎 午前9時
 全日本綜合に出場が決定して以来、練習に励んできたが、その成果を見るために試合をやる事になり東京都実業団の第一部の第二精工舎とやる事になった。ベストメンバーからHLの中西をぬいただけであったが、中西がぬけていたのは痛い。
 第二精工舎 2(18ー21、21ー14、21ー14)1 船橋クラブ
(メンバー)
 FC永盛、HR小川(寿)、BC平川、FL阿久津、FR砂川、BL横尾、HC平川(弟)、BR飽田、HL小笠原、宇佐見、佐藤
 東京都の一部だけあり、試合なれしていた。コートがコンクリートであったせいかもしれないが、全体に動きがにぶく、OBと現役の混合チームなので、一応チームはまとまっているが、中西を欠くと、決定力がなくなり試合がやりにくい。試合をあと五日にひかえたコンデションとしては上々、決定力がなく敗けたような試合であった。
○11月20日 練習 於船高 午後3時より

◎11月21日 全日本9人制,6人制バレーボール綜合男子選手権 於東京体育館
 念願であった全日本綜合選手権大会に出場し、バレーボールの大会としては最高のもので、高校、大学、教員、一般実業団とすべての層からチームが集まり、覇を争うのである。今年の特徴としては、6人制を併合して行ったという事である。バレーボールもオリンピック種目になり、国際試合も多くなろうという。現状では9人制しか大会がなく、桧舞台では好成績が上る分はなく選手もバレーが海外に進出すれば、一段とはりきり、技術向上という点でプラスになる。本大会も、そのような方針で、6人制を行ったのである。第一日は9時に開会式を行い、9人制の一回戦のみを行ったのである。
 9人制一回戦 9人制は58チーム出場
 船橋クラブ 2(21ー16、21ー15)0 宇都宮富士重工(栃木)
(メンバー)
 FC永盛、HR小川(寿)、HL中西、BC平川(兄)、FL阿久津、FR砂川、BL横尾、HC平川(弟)、BR飽田、小笠原、丹羽、(監督)宇佐見
 富士重工は国体の第二次予選の時、専売東京と対等に試合を進めている所を見ているので、船橋クラブも歯がたたないだろうと思っていた。試合になってみると、両チーム少々あがり気味であるが、富士重工は、はなはだしい。前年は、はじめFR砂川に打たせ、後はHL中西に打たせる。両チームサーブも入らず、ミスも多く盛り上がりがない。船橋クラブは相手のレシーブ、ストップが悪いので、11ー8でコートをとるも、いつ相手のアタックが爆発するかと気がかりであった。後半もよくアタックし、FR、FL、HLとトスをあげ、FL阿久津の3ポイントで逃げ抜ける。二セットめ、連続4本もアタックポイントされ、いよいよはじまったかなと思ったが、HL中西のスパイクと平川(兄)のサーブポイントですぐ追いつき、HL、FL、FRよく打ち11ー8で忽ちコートをとり11ー11となるが、アタック調子よく、17ー12と一気に勝負をきめる。船橋クラブ17ー14で慎重に作戦タイムをとり、気を落ちつけ、21ー15で勝ち。
◎11月22日 同上
 第二日は午前中、9人制の一回戦で敗けたチーム同士の6人制一回戦
 午後から9人制の二回戦
 日本鋼管 2(21ー11、21ー11)0 船橋クラブ
(メンバー)
 FC永盛、HR小川(寿)、HL中西、BC平川(兄)、HC平川(弟)、FL阿久津、BR横尾、FR砂川、BL小笠原(敦)、飽田、丹羽、(監督)宇佐見
 日本のバレー界にありA級で、本大会においても優勝候補の一角に数えられているだけあって、アタック、レシーブ、ストップと実によく、アタックの率が3、1位で、これでは勝目はない。それもサーブレシーブがよく、サーブが入ってもKeepされ、アタックで打ちかえされるからである。11点しか取れないが、これで精一杯で強いチームともっと試合をやってなれれば、あがらずにもう少し点をとれるんではないか。二セットめ15ー11と4点差につめるが、連続5本のミスで敗けたのは惜しい。
◎11月23日 同上
 第三日は午前9時より6人制二、三回戦
 午後2時より9人制三回戦、準々決勝戦
 6人制三回戦
 船橋クラブ 2(15ー10、5ー11)0 黒潮クラブ(高知)
(サーブ順)
 1.阿久津、2.砂川、3.宇佐見、4.中西、5.平川(孝)、6.小川(寿)
 昭和31年だったと思うが、第一回全日本国際式大会が、日本鋼管の体育館で行われ、船橋クラブも出場した事があったが、日本でははじめての公式6人制大会だったせいか、今度の6人制大会と、ルールも違い、パスは大分、前よりは楽になったように思える。何しろルールと試合をやっている様な状態なので、早くルールになれれば勝つと言ってさしつかえないと思う。船橋クラブも特別に6人制の練習を念入りにやったわけでもなく、以前から、先輩の話を聞いたり、あるいは練習の合間に6人制をやったりしていたので上完全ながら知っていたので、割合と簡単にルールをのみこんだようだった。黒潮クラブは、まだルールにばれていなかったようで、船橋クラブも宇佐見氏を中心に、中西氏が、大学でやったという程度で、別に相手より特別に強いという分ではなく、ただセッターとアタッカーとを分け、中西と阿久津に多く打たせたという事が、成功したのである。もう一つは相手よりはルールになれていたという事である。勝利は順当である。
◎11月24日 同上
 第四日は午前9時より6人制 四、五、六回戦
 午後4時より9人制 準決勝、決勝戦
 6人制四回戦
 株式会社ヤシカ(長野)2(15ー3、15ー2)0 船橋クラブ
(サーブ順)
 1.阿久津、平川(弟)、2.砂川、永盛、3.宇佐見、4.中西、小笠原、5.平川(孝)、6.小川(寿)
 四回戦までくると、日大、早稲田大、東レ九鱗会、倉紡倉敷と強豪ばかりで、クラブチームで四回戦まできたのは、船橋クラブのみである。船橋クラブもルールにはなれていたが、ヤシカはアタック、レシーブ、ストップすべて数段と優れていて、中西一本では、徹底的にマークされる。審判からアドバイスを受ける場面もあり、まだ本当にルールになれていないようであった。まだ上手下手という段階ではなく、ルールになれている方がかつといった具合である。理論より実践してみる事の方が大事であると思う。

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○高校男子           

小笠原 

”4年連続県制覇成る。” 4年ぶり国体にも優勝す
○3月29日〜4月4日 春季合宿
○4月3日 於国府台高
 船高 2(21ー18、21ー18)0 松戸高
 国府台高 2(21ー15、21ー15)0 船高
 ・合宿最後に、合宿中故障者が多く出た為メンバーが揃っておらず、砂川一本でやり、砂川、大橋の出来を見る。
○4月19日 於千葉商高
 船高 2(21ー14、21ー16)0 千葉商
 船高 2(21ー12、21ー17)0 千葉商
 ・砂川、花沢のスパイクほとんど決る。大橋のトスかなり良くなったが、まだ高低があり安定性がない。
○4月26日 於船高  国府台、市川高と三校リーグを行う。
 国府台高 2(21ー13、21ー14)0 市川高
 船  高 2(21ー12、23ー21)0 市川高
 船  高 2(21ー17、21ー17)0 国府台高
 ・両校ともストレート勝ちしたが、双方尾のアタック上調気味だったので勝てたようなもの、まだまだ練習
○5月3日 県下選抜綜合優勝大会 於船高
 千葉大 2(7ー21、23ー21、23ー21)1 船高
 ・参加高校中唯一の一般を敗るチャンスだったが二、三セットやはり大学、精神的に差現われ、まったくの惜敗。
 国府台高 2(21ー18、21ー15)0 船高 
 国府台高 2(21ー13、16ー21。21ー18)1 船高
 船  高 2(21ー14、21ー13)0 佐倉一高

◎5月11日 第11回全日本高校県予選大会 於四街道
 船高 2(21ー17、21ー12)0 千葉商
 ・打倒船高の必死の意気ごみが見られ第1セット終始2点差をおわれ、気をもんだが小川(HL)を無理して使って逃げる。2セット目はでだし船高得意のダイレクトに相手のミスをさそい軽くとる。
 船高 2(21ー17、11ー21、21ー18)1 市川高
 ・千葉商を上まわる闘志ものすごく最後迄苦しめられる。2セット市川HLの高打点のキル止めきれず、又凡ミスを出し、タイとされる。最終セット砂川(FR)が止まりだし、足の負傷をおしての小川(HL)に打たせ辛くも勝つ。
◎5月18日 全日本県第二次予選 於四街道
 船高 2(21ー14、21ー17)0 佐原一高
 ・サーブのみで辛勝 関東大会出場権得る。全試合終了後安房一高と練習試合する。
 船高 2(21ー17、21ー10)0 安房一高
 準々決勝で木更津高に敗れたが上可解だった。
○6月1日 於都立化学工業高
 都立化工 2(21ー16、8ー21、23ー21)1 船高
 船  高 2(16ー21、21ー16、21ー15)1 都立化工

◎6月7日 関東大会 於前橋市敷島公園県立コート
 2回戦
 船高 2(21ー19、21ー7)0 春日部高(埼玉)
 ・埼玉の吊門春日部をストレートで敗る。第一セット皆あがってしまいコチコチパスもろくに返らないしまつであったが完取す。二セット目はサーブ入り、砂川(FR)が全部一本で決まり楽勝。
 3回戦
 神奈川商工 2(21ー13、21ー14)0 船高
 ・捨て身でぶつかったが実力の差いかんともしがたかった。ただ小川(足の負傷の為)使えなかったが残念だった。
 ・千葉県よりの出場校 船高、国府台高、木更津一高、茂原農高
○6月14日 於安田学園高
 船高 2(22ー20、21ー18)0 安田
 安田 2(18ー21、21ー13、21ー13)1 船高
○6月15日 於中大杉並高
 中大杉並高 2(21ー18、21ー17)0 船高
 帝都育英工高 2(10ー21、21ー11、21ー10)1 船高
○6月23日 於船高
 船高 2(23ー21、21ー19)0 OB
 OB 2(21ー19、23ー21)0 船高
○6月24日 於順天堂大学
 船高 2(21ー16、21ー10、23ー25)1 順大
 ・順大一、二年生中心だった。

◎6月29日 全日本高校県予選決勝 於県営コート
<準決勝>
 船高 2(21ー13、21ー11)0 茂原農高
 ・問題なく楽勝
 国府台高 2(21ー13、21ー10)0 木更津一高
<決勝>
 船高 2(18ー21、21ー14、21ー18)1 国府台高
 ・風速10米を越すという悪コンディションの中で
行われたので試合そのものはあまり良い内容でなかった。小川が足が治り、打てるようになっていたが、強風であった為始めから終り迄で徹底的に砂川(FR)オンリーで打せ成功する、国府台も風の為田村(HL183)をFLに上げて打って来たが決定力なく、かえって伏兵FRのアウトへかくタッチに最後迄なやまされた、田村をFLに上げて打たせて来た事は普通以上に2段が打てなくなったので船高にかなり幸いしていた。”四連覇”いかに県と云えど難事である。
○7月14日 於市川毛織
 船高 3(22ー20、21ー19、21ー16)0 市川毛織
○7月17日 於市川毛織
 船高 3(21ー19、21ー17、21ー19)0 市川毛織

◎7月31日 全日本高校男子バーレボール大会 於山口市綜合グランド
<予選トーナメント>
 船高 2(17ー21、21ー18、21ー9)1 岐阜北高(岐阜)
 ・すべり出し岐阜の長身よりのオールランドアタック止めきれず、先取され苦戦と思われたが、二セットに入り小川(HL)砂川(FR)の左右よりのゆさぶりが成功し逃げこみ、タイと持ち込む、三セット目小川のサーブものすごく、相手の戦意を喪失させてしまい加えて攻守調子が出て軽く取り予選トーナメントを通過す。
◎8月1日 
<決勝トーナメント>一回戦
 船高 2(19ー21、21ー15、21ー17)1 岡崎工高(愛知)
 乱打を申しこんでことわられたチーム その上宿舎がハス向い、当日会場へむかうバスが同乗とあって戦う前から互いに闘志を燃やしており、良い試合だった。
 ・一セット目岡崎HRのキルにより惜しくも先取されたものの二セット、三セット小川(HL)砂川(FR)のアタック良くきまり、(特に平川(HC)からの2段チャンスボールはもちろん、セカンドサーブを直接上げる船高の誇る速攻が成功)加えて小川(HL)の強サーブが入り、新人のバックがベンチの心配をよそに大奮闘してくれ一回戦をものにする
○同日 二回戦
 直方高(福岡)2(21ー10、21ー12)0 船高
 この試合を前にして山口特有の夕立(ものすごい豪雨)にあい急遽会場を山口大学体育館に移して行われた。電気が裸電球五、六個で暗く、非常にやりにくかった。実力の差と云ってしまえばそれまでだが直方のことごとく入って来るダブルファーストのサーブをひろえずなんらなすところなく敗る。グチのようだが外であったらボールもよく見えたし、もう少し善戦出来たであろうにと雨がうらめしいかった。
○8月15〜21日 夏季合宿
○8月16日 於船高
 船高 2(21ー16、21ー14)0 習志野高
 船高 2(21ー2、21ー16)0 習志野高
 OB 2(21ー19、21ー23、21ー18)1船高
○8月17日 於船高
 船高 2(21ー19、21ー18)0 市川高
 船高 2(21ー15、21ー14)0 市川高
 船高 2(21ー5、21ー17)0 習志野高
 船高 2(21ー17、1ー17)0 OB
 船高 2(22ー20、18ー21、21ー18)1 OB
○8月18日 於京葉ガス
 船高 2(21ー9、18ー21、21ー18)1 京葉ガス

◎8月20日 国体予選 於県営コート
 船高 2(21ー13、21ー10)0 木更津高
 船高 2(21ー16、21ー10)0 成田高
 ・木更津、成田とも自己ペースに楽勝
<決勝>
 船高 2(21ー19、21ー16)0 国府台高
 船高小川、国府台田村共にHLの打ち合いとなったが、小川春の分もと打ちまくり長身(183)の田村に完全に打ち勝ち。双方とも春より数段のうまさが出て来て、良い試合だった。船高終始落ちついて、余裕のあるプレーをする一年生(3人)が全日本大会出場により試合度胸も出来又プレーが上達したことも勝因の一つであった。国府台HL田村が安定性が欠けていた事が命取りであったように思われる。
○9月3日 於市川毛織
 船高 3(21ー16、21ー18、1ー15)0 市毛
○10月20日? 於順天堂大学
 船高 1(22ー20、9ー21)1 順大  日没引分

◎10月20日 国民体育大会 於富山県魚津市 市営コート
<一回戦>
 船高 2(21ー15、21ー17)0 岡山東商高(岡山)
 ・30年度姫路に於ける全日本大会の時準優勝したことのある吊門、岡山であったが当時のおもかげなく、小川(HL)砂川(FR)のアタックの前にもろくもくづれた。
<二回戦>
 岡谷南高(長野)2(24ー22、17ー21、21ー15)1 船高
 一セットがやまだった。船高小川(HL)、岡谷(FR,183)の打ち合いとなったが、岡谷のFRの右手でストップの上よりクロス、ストレートと打ち分けてくるスパイク最後迄止まらず上がらず敗る。一セット終、17ー20より小川のサーブにてジュースにもちこんだが惜しいところでFC(一年)のミスが出て先取されたのが痛かった。

 去年は全日本高校選手権、国体と全国大会に出場し、かなりの成績を収めた事がなんといっても特筆されるが、一年間の全試合に実力いっぱい悔いのない戦いをしたということも忘れられない事である。現役諸君、本年も去年に負けないよう大いに頑張ろう。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<昭和33年度回顧>

◯『思い出』二つ                    

砂川 浩一  

1.ある夜の出来事
 私の二年生の時だ、全日本大会県予選も宿敵国府台高をほふり大望の全日本大会出場、場所は仙台、三年生の人達は最後の全日本大会でもあった。私達の一年生の時のコーチャーは宇佐見さんだったのだが二年生になって、小笠原さんに変った。今になってその時を思い出すと、まず第一印象が”こわい”だったかも知れない(今ではそうでないけど) 練習中に又試合中に失敗すると自然に眼は小笠原さんの方を向く位、それにもまして種村さんが、わざわざ我々の為にと思ってか、持って来てくれた”ホテチク”小笠原さんの愛用となってしまった。こうなると種村さんより”ホテチク”の方がうらめしく買った。日々の練習は”ああ苦しい””ああ苦しい”の連発 練習の終った時のうれしさ本当に何とも言えない だけど時々安心したのもつかのま”お前は練習だ”この声程がっかりするはなかった。そうこうしているうちにいよいよ出発、準備万端整え一路仙台へ希望と夢に胸ふくらませて、一夜汽車で送ったそして宿舎到着、ちょうど朝着いたせいか、皆頭がぼーっとしていて宿舎に入るとすぐ様、床にもぐった。その日の午後と翌日一日と練習があった。旅の疲れもほとんどとれ体ももとの状態となった。乱打もやり一応試合の出来るコンデションを作った。そして無事練習も終えたがいよいよ試合の 前日 その時のマネージャーは秋山さんその補助役らしきものが、私だった。練習も終って宿に帰り、一日の疲れを湯舟で流し、そして大望の夕食、その前に、小笠原さんから”ユニホーム、ストッキング等は今夜のうちにそろえておけよ、あすになって又あわてるなよ”と御忠告があった。私と秋山さんはユニホームの係だった。食事が出るまで、それぞれ整理等行った。ストッキングも調べユニホームも調べにかかったが、どうしたのか確かにそろっていたはずの10番のユニホームが一着足りない。”さあ大変”行く前には、全部ちゃんとあったのだから今さらみんなに言う訳にはいかない、それより知れたら必ずホテチクが来るに決っている。二人で顔を見合わせているのを立石さんが変に思ったらしく”みんなあるんだろうな”と声をかけた、”うんあるよ”あわてた秋山さんの声に私はちょっとこわくなってしまった、とに角今夜中に作らなくては大変だそれで一まずこのままにして夕食をすませ床についてから相談する事に決め、何もなかった様に食事をすました(内心誰か何とか言いはしまいかとびくびくしながら)そしてやっとの事で床に入れた、そして消灯、いよいよ策戦そして数時間たった、何時頃か解らなかったがもうみんなは、ぐっすりねて、しーんと静まりかえっていた、とに角同じ物を作らなくては、二人はそっと部屋をぬけ出、そして、外に出た”確か運動具店は、あのまがり角にあった”出来様が出来まいがそんなのどうでも良いどうしても作らしちゃおうと運動具店にかけつけたがもちろんもう寝てしまっていた、戸もぴったり閉じていて大声で”こんばんは””こんばんは”と呼びかけたが聞こえないらしかった。そこでこんどは、無礼かまわず、ドンドン、ドンドンと戸をたたき無理矢理に入り込んだ店の主人は、何事かとねむそうな目を、こすりこすり出て来たが私達が”これこれしかじかでとにかく、明日の朝まで何とかしないと”と話すと主人はちょっと考え込んだが、”どうにかやって見ましょう”と気持良く引き受けてくれた。これこそ天の助けとばかり喜び、大急ぎで宿に帰り、ぬき足さし足で床にもぐり、”どうか出来ます様に”と祈りながら目を閉じた。翌朝は、緊張していたせいか誰よりも早く起ることが出来た。そして大急ぎで取って来たのだが何とそれは出来たてのピンピン、もみくしゃにしたり手垢をつけたりして気付かれない様にしたそして又床に入り、みんなと一緒にさも良く寝たかの様に起きた。さいわいそのユニホームは一年生が着ることになっていたからまずは成功だろう!と思いきや、そいつ”僕のユニホームこんなに新しかったかなあ”と一声、”うひゃあ”背すじまで凍った様な気がした。だけどみんな自分の事に夢中になっていたので別に誰も気にも止めな買ったらしい、何事も起らなかった。”ああ本当に助かった”
2.”コッペ”
 入部以来三年間一番御世話になった?のは、まず、”おばさんの家”パン屋さんであろう。苦しい練習が終り、日もとっくり暮れてどこの家でも夕食時、校門まで行くと定時制の人達は、これから授業を受けるのだろうバスから降りて校内へすい込まれて行く、そしてバスが出た後の静けさは、腹の虫が一番ひもじい時らしい話しをしながらでも虫が号令するのか自然と右向け右でスムーズにおばさんの家に行ってしまう。そして入るや、まず第一声が、たいがい”おばさんコッペ”である。今では、もう入って座っていればおばさんの方から”何をつけましょうか”と、コッペは省略されている。我々入部以来の目標は”伝統の保持”だったがこんな所までとちょっとおかしくなった。他のクラブでもやはり練習が終ってからおばさんの所へ来る様だが、バレー部程”コッペ”の好きなクラブはないそうな、今では他の人はたいがいそれを知っているらしいので人がいる時には、そっと注文する様にしている。そんなことはどうでもよいがとに角おばさんの家の”コッペ”は三年間の楽しかった思い出の一つだ。

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「バレー生活三年間《

横尾 竜輔 

 高校入学前、僕は中学時代に少しバレーをやっているが、高校に入学したら今度はテニス部に入ろうと思っていた。
 さて船高に入学した五月の或日、テニス部に入ろうとして、テニスコート近くに来たところ、金網を越えてバレーのボールがコロコロと転がって来た。それを拾い上げ、転がって来た方を振り向いたら、中学の先輩である平川さんが近づいて来るのが見えた。僕は軽く頭を下げた。すると平川さんが「バレー部に入るのか《と言われた。思わず「はい《と答えてしまった。気がついた時はもうおそかった。今さら「いいえ《とは言えず黙っていると「明日部室に来いよ《と言ってコートの方へ行ってしまいました。思えば「はい《と答えた時から僕の苦しくも楽しかったバレー生活が始まったのである。(あのボールが転がって来た一瞬がなかったら------。)
 それから一年間は無我夢中で過ごしてしまった。そして全日本大会にチェンジメンバーとして出され、ポジションにつくとすぐに、ボールが飛んで来た。それに手を出しさわろうとした瞬間、尻餅をついてしまった。(きっとあがっていたにちがいない。最初から選手として出されているよりチェンジメンバーとして出される方があがってしまうものである。)こういう事が今になっても思い出される。
 二年になって出場した時は、だいぶ試合にもなれ、また、三年生にリードされていたためか練習も試合も楽にやれた。
 三年になり、バックセンターの位置が与えられた。立石さんの後だけにこの位置が僕に務まるだろうかと、一時は思案にくれていた。が、とにかくこの位置を与えられた以上、なんとかして努めなければならないと思い、一生懸命練習に励んだ。その結果と先輩の指導や援助によって、この位置を完全ではなかったが、どうにかこうにか努められたことが出来、嬉しく思っています。
 また、全日本綜合選手権大会に出場させていただき、実業団と試合する事が出来た事は、僕にとって有意義であったと思う。富士製鉄室蘭の西原選手などは、僕とあまり体格が変わらないにもかかわらず、あれだけやれるのは、やはり人一倊の努力とバレーに対する熱意と研究心を持っているからであろう。これはバレーのみならず何事においても欠くべからざる条件であると深く考えさせられた。
 現役の諸君も努力、熱意、ファイトをもって、5年連続優勝を成し遂げられん事を祈る。
 また、先輩の皆様には今後ともよろしくお願い致します。
  1月24日


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<必ず読むべし-------ルールの改正------>

金子 一雄 

 今年度から、ルールが若干国際式に近づけられましたので主要点をお報せします。
1.サーブのネットインは認められないでフォールトになる。
2.セット間のタイムはチームの要求がなくとも自動的にとられる。
3.策戦タイムの時に監督はコートに入れず、コート外から話しかける(ラインの処迄は行ってもよい)
4.ネットのサイドラインの真上の部分に白布で標示帯をつける。これより外側のネットに触れ、又はこれより外側を通過したボールはアウトである。但しボールのほんの一部でも標示帯に触れ、又はかかっていればよい。尚、この判定はボールを打った位置ではなくボールがネットの処に達した時の位置で行う。



 これは、審判だけでは見にくいので、ラインズマンが気をつけて、ボールが標示帯外を通過した時は手をふって審判に報せる。
5.審判のジェスチャーもドリブル、タイムアウト、メンバーチェンジ、ワンタッチ等が変更になったが、省略する。
 

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「大 阪 日 記《

石黒 弘 

 船高を出て早くも6年になろうとしている。何の因果か社会人となった途端に、大阪勤務となり、船高クラブからも離れて一人ぼっちで暮らしている。「何!日頃の精進が悪いからだって《そりゃあ思い当たる事もあるけれどね、何もバレーまで奪う事はなかろうが-----そうだ去年の都市対抗の県予選が最後になったっけ。
 4月に国家試験を終え(よくも一回でパスしたもんだ、我ながら驚きだよ。何しろ教養とミ力がはみ出しているんだもん)翌日「ツバメ《で遂に都落ちをした。東京駅には永盛君が送りに来てくれたっけ。
 それからは大阪弁に取りまかれて暫くは同級生と逢う事丈が楽しみだった。丁度その頃三橋美智也の”夕やけとんび”や”おさらば東京”等が流行し東京を思い出しながら愛唱した?ものだっけ。何せ会社へ行っても「石黒さん何してはりますの《と云われているんだもの面白くもあらへん。間違いをすると「アホー《じょう談を云うと「いややわ--《勝手にしやがれ、5月に都市対抗が府立体育館で行われ会社をサボって毎日通ってしまった。好きなものは幾つになっても面白い。7月東京本社へ出張したが時間の関係で誰にも逢う事が出来なかった。すまじきものは宮仕えなり------ 8月インターハイの帰りに宇佐見、小笠原君が下宿へ寄ってくれた。嬉しかったね、久し振りだもの、小生の知っている?所へ案内したが感心していた様子だったから満足していた事と思っている。先立つものさえあればキャバレーでもアルサロでも行ったのだけど----いや幸いなくてよかったよ。下阪する時には又寄ってくれ、もっと面白い所へ案内するよ。
 東西対抗はテレビで見たが、会場にいるのと違って雰囲気がなく、何となく味気なかった。ああクラブのみんながうらやましい試合場で見る事も出来ないなんて、”私は貝になりたい。------
 先日はデートの約束をしながらつい寝すごして約束の時間を一時間もすぎていた。ままよと放っておいたら電話で呼び出された。難波で逢った途端、彼女開口一番「あんたみたい人知らんわ《続けて「キライ《だって 彼女涙を浮かべてじっとにらんでいた-----。フランク永井じゃないが”何て泣きはる泣いてはる思い出の-----恋さん------。
 何時の日か東京へ戻る日の早く来る事を期待しながら、毎日会社へ出勤している小生の気持を察して下さいな。
 なつかしいあの時あの町 そしてあのコート そしてあの友よ 共に幸あれかしと---

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「在学時代のこと《

金子 一雄 

 33年度は現役男子の好成績だけでなく、クラブも久しぶりに県の全タイトルを握り、全日本の四回戦に進むという成果を挙げた。私と石黒君が、都市対抗予選を最後に引退したとたんにこうではいささかしまったとおもわざるを得ないが、引退した者はそれらしく、昔をふり返ってみることにしたいと思う。いつも墨黒々と○○高BL○○○子と記吊した鉢巻をなびかせて試合に出るモサがいたなつかしい時代である。この頃を知っている人は、それからそれへといろんなことを思い出してくれるであろう。
○昭和22年(旧制中学3年)
6月、バレー部創立、経験者は5年の相川先輩のみであった。部員数20吊余り、コートは今の南北校舎の間で物理教室の前の、海岸の砂地で、両エンドラインで高さが30cmも違ったろうか、丘の斜面に芋を椊えてあった吊残の傾斜である。
運動靴など未だ出廻らない時代で、全員ハダシ、夏は砂が暑くてじっとしていられずフットワークには良かったというものの、バケツで水をまきまきやったものである。その代わり冬はゴツイ靴をはいたままやったりした。
7月末の大会に初優勝し、当時佐原高女に居られた福地先生に、県営グランド脇の林の中でいろいろと御注意をうけたが、これが後に新しい技術をとり入れて行くよい刺戟となった。この時の部員で今もプレーをしているのは大会当日はネンザで休養していたが、HLだった近藤さんだけとなった。相川さんも今は亡く、あとは加藤HC池田、中村の3先輩に、宮原、玉沢とFRだった私以外 連絡も絶えた。
秋は高校に移行のため、3年以下を除いたメンバーで行われ、金沢での国体に出場したがこの時、全校生徒が米を一握りずつもち寄ったのも時節柄である。この年はムガム中で沢山練習し、沢山試合をしたが、各校とも草分け時代で、相川さんの存在が大きく、大沢先生(現東葛高)の率いる佐倉中が相当強かった他は問題なく船中が強かった。この自信が、現在迄の伝統を築き上げる大きな力となっている。
○昭和23年(高校1年)
高校移行で前年の部員が大部分(但し、レギュラーだったものは3吊)残った。今のクラブ員では、FC近藤、HL池田、HC海老原、BC加藤忠、FR金子一、BL玉沢、補宮原などである。福地先生着任。
毎月の5校リーグ(当時の強豪 千商 佐倉 長生 成東と共に廻り持ちでやった練習試合)のこと。連線連勝の果、国体予選決勝で19ー13から挽回されて長生に敗れたこと、(その時某女高選手達が池田さん達を慰めながら泣いていた)綜合選手権で、千葉医大をストレートで、其も2セットは21ー4で破って優勝したこと、想出は多いがそれもその筈、この年の試合と練習の多かったこと、
コートは運動場の中央にあって球拾いが大変だったばかりでなく、雨の後は当分の間、湖の様になってしまって使えず(24年に大々的に整地される迄この状態だった)今、図書室だという北校舎2階奥の教室(合同教室といった)にネットをはって練習したり、海神中
船中 船小へコートを借り廻ったりした。今は公民館前の道路になってしまったあたりの旧船小校庭で、星明かりを頼りにサーブをうったことなど、他のことを気にせずにそんなことができただけよい時代だったのだ、と思うが、遠くから通っていた池田、海老原さんによくそんな生活が続けられたと思う。ボールも上自由な頃で、何度も分担で修理し、つぎ貼りして重くなったボールはバックのロングパス用とし而も、中に1箇 ”10貫匁”と称するバカに大きくて重いボールがあって、当時小さかった玉沢、宮原等が音をあげていたことなどは今からすれば苦笑ものである。尚、OGの伊藤さんが海神中FCとして、県中学選手権でその鋭いタッチを認められたのも確かこの年だ。
○昭和24年(高校2年)
前年のレギュラーで残った2人の内、私は病気で休んで、残るはHC玉沢1人、3年生はいなくて、新主将BC宮原も大変だった。FC西村、BL小笠原博、FL柴山、FR山賀、BR長島などがレギュラーになった。山賀が転校して来て、入部3日目に大会にだされた時の逸話もあるが、チームとして最低の年であった。夏休みの練習は当時海神中の先生だった近藤さんの処迄通ったが、4人位、ひどい時は近藤さんの他に1人だったこともあったという。今にして思えば、この年が船高バレー部の一番の危機であった。OBのバックアップも組織的でなかった頃だし、負けてばかりいて、試合の度に顔ぶれが変わっていた。この時、幾人かの中心になる人達が、自信と闘志を失わずやりぬいたおかげで伝統が崩れ去ろうとするのを辛うじて止め得たと思っている。この年の人々は積石を加えはしなかったが、とにかく土台の崩れるのだけは防いだ。今でもこの年のことを思う度にヒヤッとするが、当時の数少なかったOBにも感謝している。OBチームは創設第一年で、国体予選には勝ったが、綜合では佐倉高に決勝で敗れた。女子部も作られたが、1年生のみ数吊で、この時の人は、今のクラブには残っていない。
○昭和25年(高校3年)
やはり、最上級生としてやっただけに一番なつかしい。合宿を初めてやったのも、新しい戦法をどしどし具体化したのもこの年であった(合宿の食事は3回とも女子に頼まず、自分達でやった。そのための珍談もある)然し、国体予選はFL柴山の合宿中(予選直前授業のある時だったが5日位やった)のネンザ等から準決勝で敗れ、綜合も準決勝で安房クに敗れ、成績は悪かった。只、春の県民大会には、OBと混成で固定式432で出場 ブロック予選 本大会計8試合とも熱戦の連続の末優勝 愉快であったし、その後の技術の進歩にも為になった。この年のメンバーはFR山賀、FC永盛、FL柴山、HR西村、HC玉沢、HL金子一、BR長島、BC宮原、BL小笠原博で新入学の永盛をいきなりFCにしたわけだが、彼も今とは大違いで大人しく、シングルタッチをやらせようと思っても仲々度胸がなく、1年間にシングルタッチとしてはわずか2本しかやらなかった。彼をFCにするについて、私としては3年生なみのパスができるからという以外に大した考えもなかったが、コーチャーだった近藤さんが、後に近藤さん自身と並んで巧FCと言われる様になった彼の素質をこの時既に見抜いていたかどうか、一度聞いてみたいと思いつつそのままになっている。
 先に述べた鉢巻の一件も、某君の脚にサロメチールをすりこんでやって我々がひがんだのも、授業選択制が徹底していて、空時間が多く(空時間でない者も大分出て来ては)午前中から職員室前のコートで練習していたのも、女子部員に混って某君の仲良しの女生徒がいつの試合にも応援に来ていて、或時一度来なかったら、他校の奴が、いつものベレーの人は今日はどうしました?と聞いたというのも、合宿で花沢が余り飯を食うので驚いたのも、同じく永盛が余り迅速に食うので驚いたのも、忘れられない。
 福地先生はこの年の4月に熊本に去られ、この年はたまに教大の木村さんが来て下さった他は近藤さんの指導と自分達の力でやったのだが、26年4月私達の卒業と入れ代りに田中先生が着任され、先日迄の8年間在職されることになったわけである。
 女子チームも正式に成立したが大会に出場せず。中学では御滝が強く、OGの矢吹さん中村さんは翌年の入学が期待されていた。総じて言えることは、この頃は練習が攻撃偏重で、レシーブ練習は個人ノック以外は今程実質的ではなかったし、きたえ方のうまい人もいなかったし、またそれで済んでいた時代である。レシーブの差が死命を制する様になって来た 即ち、全体としてのレベルが向上して来たのは28年頃からででもあろうか。サーブも強打主義の時代である。但し年間平均の入I率は0.40〜0.46で最近と変わりはないのであって”ここぞという時には多少ゆるく打っても確実に入れる”という考え方がなかったという意味である。
 指導法、練習法というものに通じた人がいなかったのは初期のことで当然であるが、其だけに、皆で考えてやったという処に良い点があったと思うし、体育館がなくても雨で休むということはなく、教室でレシーブとクイック攻撃とストップを廊下でトスとレバンドを練習した(ガラスを随分割った)のなど、乱暴ではあったがなつかしい。尚、この頃の長生、佐倉を知る私としては、最近の両校の上振は残念である。特に佐倉は教大OBの赤池君を迎えて3年、再興を期待している。
 卒業後の私には2部の大学リーグと船高クラブのかけもちという忙しさが待ちかまえていたわけだがこれからのことは、またいつか書かせてもらうことにしよう。 ---終---

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<現 役 に>

石黒 弘 

 「現役に何を望むか《との題で飽田君より要請があったがプレーから遠ざかっている小生故大きな事を云えたものではない。ペンの動くままに記して見たが、あれもこれもと沢山の事があり、その中から一つ丈を原稿として出してみた。”ナインワン”いやしくもバレーボールを人生の友として練習に励まれるバレーボーラーの諸君は此の言葉を知らぬものはないであろう。このすっきりした”ナインワン”の言葉こそ、スポーツマンの身につけなければならない根本的な精神ではないだろうか。とかく人間は勝手なものですぐに”自我”という角を出し易い動物なのである。 チームプレーをやっている時にこの角が出て来る所に人間の弱さがある。ここがスポーツの難しい所ではないだろうか。特にバレーボールの競技に於てはあの狭いコートの中を走り廻るナインの気持に一寸程の穴があってもならないのである。バレーボールの持つ好さを十分に発揮せしめ又観客をしてバレーボールを語る資格もないであろう。チームの全員がこの”ナインワン”の糸で結ばれた時十の力を十二分に出し切れる時なのである。人の和の取れていないチーム------考える丈でもぞっとする様なチーム-----が案外沢山そこら辺りにごろごろと転がっている様な気がする。せめて船高のチーム丈でもその様な事のない誰にでも好感を持って迎えられる様なチームになりたいものではないか。そして希望を大きく若人らしく伸び伸びとバレーボール生活に悔いを残さぬようにしたい。「冬きたりなば春遠からじ《もう直ぐ春--シーズンがやって来る。待ちに待ったシーズンがやって来る。ある澄みきった青空の如くにごりのない気持で”ナインワン”を信条として若人らしくのびのびと朗らかに白球を追ってコートの上を走り廻ろうではないか。

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「富 山 国 体《

一年 加藤 節雄 

「富山国体《それは僕にとって、一生忘れられないことであろう。中学の頃、国体などと聞くと僕にとっては関係ないことで、ただ、国体!ふーんいいな、と思う程度で出場できるなんて夢にも思っていなかった。それが船高バレー部へ入ったら、半年ばかりバレボールをやっただけで国体へ出場出来たのである。まったくクラブに入るなら強いクラブへ入るべきである。
 国体は、行くまでは余り行きたくないなあという感じはしなかった。なぜならば、全日本大会へ行って来てすぐだったこと、全日本大会の時と違って今度はレギュラーとして始めて大きい大会へ出場することの上安、何だかんだと費用がかかることなどであった。しかし船橋駅での友達の盛大な見送り、富山の県をあげてのもてなしぶり、宿舎 谷さんの家の人のあたたかいおもいやりのある歓待に、そういう行きたくないと思った心が、おかしく感じられるようになってしまった。さて富山の思い出は数々あるが、プレーの事は抜きにして、まず宿舎谷さんのことであろう。庭に川あり池あり林あり部屋数も多くきれいで、残念だが船橋あたりでこんな家をみようと思っても見られない。家の人もいい人ばかりで心おきなく泊れて、旅館なんかより全然良かった。
 それからあの忘れることの出来ない入場式。立錐の余地もない富山競技場に、府県別に堂々と入場行進を行い、聖火の点火、国旗、国体旗の掲揚、にわか雨のふりしきる中で聞いた天皇陛下のお言葉、ファンファーレとともに飛び立つ鳩、舞い上る風船、等々感激の連続で息のつまるようであった。試合の翌日富山市へ行き、市街を見物し、国体気分に浸って、国体臨時列車で千葉県へ帰って来た。この富山国体は全日本大会と違ってスケールがとても大きくて待遇が大変よかったのでその他思い出も多い。又、プレー面においては学ぶべき点が、たくさんあったので、これうを生かして、今後の練習に望みたい。

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「遠征について《

三橋 博己 

 今年僕等は、三回という遠征に恵まれた。それも中国地方、九州、北陸地方という遠い胃遠征であった。僕等は遠征の目的は試合をやりにいくということであるが、旅行気分になってしまった。僕はこれまで遠くの方へ旅行したことがなかったので、気分もふくらんでいたようだ。三回の内で一番印象に残るのは、やっぱり国体の富山県へいったやつだ。全日本大会で見物して来たものもなかなか死ぬまで、見ようとしても見られないかもしれないものを見てきたので、感慨深い。全日本大会と、国体の遠征の感想といっても思ったことを書こうと思います。まず全日本大会これは夏休みの最中なので勉強にさしつかえない、それも遠い山口県へ行くのでまったくいいと思った。ついでに博多「ちょっと金がかかったけど《へ行ってくる予定だったので九州まで行ってしまった。自慢話の一つになっちゃった位だ。この前に一回国体大会へ行ったので、まあ仕たくは整った。まず宿舎が気になる。どんな所かな----と思った温泉町の一旅館だった そこの風呂は僕には幸いした。ちょうど、その時僕の顔にヒフ病ができていたがそこの湯ですっかりきれいになって、まったくついていて、家に帰ってから家の人が心配してたのにすっかりまおったので、大喜びだった。試合はいい所で優勝候補の一つに敗れたが、みんな元気であったように見えた。それから秋吉洞へいったのはまったくおどろいたすずしい洞穴中はずっと奥までまで広く上思議なほどの情景でした。一生思い出となると思います。しかしあまり自由時間がなく俺達としてはおもしろくなかった。「いろいろの点で《国体も、又かってもんで、たいした期待もせずにいったが結果は三回の遠征中最も僕としてはよかった 自由時間が多かったせいかな、入場式の感激、はじめての大観衆の競技場へ入ったのは、初めて異常な忘れられない感激のかずかずだ。歓迎の人々の盛大さまったくうれしかった。みんなも同じだったと思う 遠征でなくては味わえない雰囲気だ、又宿舎のりっぱなこと 行く前は民家というので、どんな風か心配したがすばらしいところで安心まったく気分がよかった。又遠征に行きたくなってくる。またいろいろな勉強にもなって初めて遠征も、僕にとっても、意義深かった。遠征はやっぱりいいので今年も行くようにがんばりましょうぜ----------。

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「クラブ生活というもの《

伊谷 禎郎 

 「君の趣味は何だ《と尋ねられれば現在の僕には「スポーツ《と答えるより他に答えようがないであろう。それ程自分が自分というものを考えてみる時にスポーツというものを切離して考えられなくなってしまったのである。休日にはスポーツ雑誌、新聞等をたくさん買い、隅から隅迄読み通してしまう。それ故スポーツの知識といったものは誰にも負けないという少しの自信は持っている。船橋高校入学と同時に僕は最近の高校生の共通の悩みとなっている学業と運動の両立という問題等に見向きもせず、運動クラブに飛び込んでしまった。今になって考えればもう少し時間をおいても良かったのではないかとも思うが-----しかし楽しむ為に、高校生活を有意義に過す為にはクラブ入部が一番良いという考えが現在は僕の一つの信念となってしまった。どんなに苦しく辛い練習でも汗をかいた後の爽快さを味えば消し飛んでしまうそれも自分が運動が好きで好きでたまらない故かもしれない。クラブの意義等というものは今更考える迄もなく余暇の善用であろう。良さや悪さは卒業して初めてわかるのではないかと思う。とにかくクラブでの生活は楽しいし、苦しいが勝利の後は格別だし無条件で気に入ってしまう。僕等は高校生である。勉強も一生懸命やらねばならない。そして成績も上げてみようという考えは誰でも強いと思う。今はシーズンオフなので、それ程苦にならないが練習が本格的になれば家に帰る時間も遅くなる。机に向かって一時間ともたない。こんな毎日が連続だ、したがって成績もあまり芳しくない。何とか勉強しなくてはと思うのだが、-----しかしその為にクラブを辞めようなどとは考えた事もない。しかし漸く学業とクラブの両立といったものを考えもしなかった入学時ではあったが、真剣に考えるようになって来た。成績も上るし又クラブの成績も上れば二重の喜びだ。どうしても実現したいものだ。それも自分自身の努力如何だと考えてみるとファイトがもりもりと湧いて来るようだ。よし頑張るぞ。そして一日一日を楽しく有意義に過すのだ。

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「クラブ生活《

石山 君子 

 クラブ生活の落後者である私はふたたびこの生活にまた出発させていただきました。まずこの一番の原因と云ったならば、中学校の時クラブ生活と言うものを全然知らなかった私は雰囲気になれる事が出来なかったことまた自分の意志がほんとうに弱かったことが大きな原因であるようだ。意志が弱かったと云うことは練習中に「他の人は勉強しているのではないだろうか私一人がとり残されて行かれるのではないか《と考えてしまった。これは練習中にバレーボールと云うものにぼっとう出来なかったことだろう。現在に於てクラブ生活に入部して収得したことと云ったら何であるか、これは「意志《と云うものがめだって強くなったことだ。これは人に敗けるまい一人だけ残されない様に、常に頭にあるからだほんとうにありがたい、またある程度「礼儀《と云うものを少々得た様な気がする「団体生活《「みんなで力を合わせよう《などと云う言葉は、小、中学校に使われる様であるが、私はこの団体生活によってわがままと云うものが解消される場所の様な気がするからである これらが私がクラブに入っての収得したものです。ただこのクラブで一番残念な事また私の要求する事は部員をふやす事である現在のクラブ員ではほんとうに少ない様な気が致します。ただ一生懸命練習にはげんでよい試合をする事が私の念願です。

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「入 部 と 私《

西山 朝子 

 9月9日 初めて高等学校のバレー部というものに接触し、練習に参加した。8月21日に入部した(それよりもずっと前から入部する事を希望していたのだが)のであるが、その日からというものは、練習を始める日が待ち遠しいのと同時に、一方では、果たしてどの様な練習であろうか、中学校の練習法とはどの様に異なるのだろうか、自分はこれから皆の中にとけこんで楽しく練習し、最後まで皆と一緒について行けるだろうか等多くの疑惑が毎日毎日頭から離れなかった。果たして練習の初日 残暑きびしい太陽の下で、一学期間共に練習してきた人達の中に混じって、別に何の気後れもなく練習に参加した。今から考えればもう四ヶ月余りも前の事である。その日の帰り道で、入部した事に対する慶びをつくづくと感じた。約二年ぶりの激しい練習に、心身共に疲れ果てた。しかし、その疲労感は真に快いものにほかならなかったのである。その日から時間的余裕が無くなったために、生活が色々な面に於て時間的に束縛された。昼の勉強時間はそれだけ夜にまわされ、睡眠時間は少し減らされた。そのために学校であくびする事も度々あった。しかしそれだけにバレーボールに対する愛着、生活に対するファイトも自ら高まった様な気がする。強い日光の直射をうけてボールにぶつかって行く時、そこに上安、上満のはけ口を見出す事が出来るのである。そして汗と埃を洗い落として今日一日を回顧した時、明日こそは!と思わない日はない。部員と共に抱負を語らい、苦楽と共にして得られる賜、激しく、厳しく、そして辛い練習をしてこそ得られる賜、それは運動する者のみが味わい知る事の出来る慶びなのである。これからの道は平ではない。上り坂もあれば下り坂もあり、山道もあれば川を渡らなければならないかも知れない。その道もいつ果てるかすらわからない。中途で倒れれば、そこで凍死するかも知れない。あせれば谷底に落ちるかも知れない。己を鞭うって着実に一歩一歩目標に進む為十人一丸となって努力しよう。そうすれば必ず明日への若芽は出るのだ。 ”事は一朝にして成らず”

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「入  部《

一E 渡辺 芳子 

 たしか去年の初めだったかまだ船高に入る前の事、ある方にこの船高バレー部について一言お聞きしたことがあります。その言葉に「あそこは男子が強いが女子はどうも----《と。その船高バレー部に入ることが理由でなくこの学校に入学しましたが毎日勉強で追われている様な気がします。これでは俗にいう楽しい高校生活というものが送ることが出来るであろうか、それを送るためには運動クラブに入ることも一つの方法だと思った。そこで二学期より船高バレー部の一員となったわけです。さて、入部してみると中学時代と変わった事が数多くあります。ここでは二つ三つほど、第一に男子バレー部がある。これはこの学校が変わっているというより私たちの学校に男子バレークラブがないという方が変わっているかもしれないが-----第二にあのうす暗い部室、電燈は何ワットか知らないが裸電球ただ一つ、出入りする戸は「ガラガラ《と気持ちよくあかない。すみずみには着古したシャツ等が積み重ねてある。第三は毎日練習をすること。このことが私にとって一番かわったことというより困ったことです。入部した当時は練習最後の整理体操になるとほっと一息、ため息が出てしまう。学校からの畑道、坂道を歩くと足ががくがく。階段のぼっても、腰かけるにも足がいたい、家に着くと7時近く。晩食、娯楽、宿題、9時にはもうねむたくなる。その上朝も起きられない。授業中もねむい.このようなことがしばらく続いた。いっそやめた方が-----と思ったが結局今の状態におさまった。今はちがう。第一に練習には必ず出席する事に心がけ又、それを実行してきたと思います。それにこの頃では練習に出るのが一つの楽しみとなり、自然に足が部室へと向きます。これでやっとクラブの一員になることが出来たと思います。これから後は練習、これに力を入れたいと思います。これがいつまで続くことやら、末永くこの気持が変わらねばよいが----と自分ながら思う。

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「合 宿 の 印 象《

金剛寺敏夫 

 船高バレー部に入って二か月半ではやくも関東大会に同行させられ我々一年生にとっては、たいへんうれしかった。このうれしさ、たのしさを再現しようとして、毎日の練習にはげみ全日本大会にも出場できた。全日本大会には、いろいろなことを経験した。この大会も終りやっと一息ついたらすぐ合宿練習に入った。今年は国体出場のチャンスでもあり、合宿練習には最初から熱が入った。我々一年生にとっては始めての合宿であったので、この練習にたえられるか、たえられないかの上安がわいてきた。合宿練習は、アタックの強化、あるいはサーブの入率を良くするとかその他多くの目標があった。練習は確かに普段の練習よりは苦しかったが練習が終って皆で雑談をしているうちに練習がつらいなどということは吹っ飛んでしまうほどたのしい時があった。練習もだんだんはげしくなり一晩ぐらいねても疲れがぬけなかったが、合宿の最終日の国体予選がやって来た。今回の合宿練習の最大の目的であると思われたので、合宿は最後まで気を緩めることがなかった。この国体予選も決勝では国府台高校と対戦した。全日本大会の予選とはちがって2対0で快勝しここに合宿の結果が現れた。この合宿練習の印象を忘れずこれからの毎日の練習に励み伝統を保持することは始めて合宿を行った船高バレーボール部員の望みでありやらなければならぬことである。----終り----

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「バレーに対する私の願い《

山本 史枝 

 私が船高に入学したのは運動その中でもバレーボールがしたいからでした。それなのにいざ入学してしまうとバレークラブに入ろうか入るまいかと非常に迷ってしまいました。自分には自信がもてなかったからです。一学期間考えましたがそれでもはっきりした気持になれませんでした。ところが夏休みも終りに近づいたある日、中学生の市内バレー大会を見ていて急にバレーの楽しさが思い出されて中学校の時夢中になってやったバレーが自分にとってどんなにか役立ったかそして自分にどんなに必要かを知りました。9月に入り二学期が始まるや早々私は入部申し込みを出しました。クラスで私の他に二人が一緒に入部するので一層私に力を与えてくれたのかも知れません。さて、いよいよバレー部の一員となりました。まだ残暑はきびしく私は汗っかきでおまけに半年以上運動らしい運動をしていませんでしたから、練習がとても苦しく感じられました。そして最初のうちは足が痛くなったり或いは腰や腕が痛いで大変でした。しかしすぐになれそうになってくると練習が終ってからきれいに汗をふきとって皆でいろいろと話し合う。その喜びは何ともいえません。又、クラブに入って一番利益をもたらしたのは、一学期の時早く家に帰っても勉強をするでもなし、唯ブラブラ時間を費やしていたのがそのような事もなくなりおまけに勉強の方まで前よりも返ってファイトが出て来た事です。そして中学校の時より一層チームワークの大切さそしてそれがどんなに難しいかを知りました。勿論強さそして勝つという事が一番大切である事は言うまでもありませんが、チームワークはその基礎になるものです。私は自分をそれほど我儘だとは思いませんがある面ではとても弱い点をもっている事を知っています。今はそれが出てきませんがいつその弱点をされけ出すか分かりません。バレーによってその弱点を知りそして取り除く事ができたら私にとってバレーボールをした目的を果たせた事になります。しかし今の私はただ一生懸命練習に励むという事が一番の目的ですから先生、先輩、上級生のおっしゃる事を良く聞いて、他の部員の人達と協力して立派な船高クラブを作りたいと思っています。

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「腹鼓(づつみ)の由来---たぬきの娘の話----《

石黒 弘 

 昨年暮のある病院の薬局長から童話を聞かされた。面白いと思ったのでこれを物語として見た。皆さん狸が何故腹鼓を打つ様になったか、御存知ですか。昔々私の祖先がまだ腹鼓を打つ事を知らなかった時代のこと-------ある森に狐のコン吉さんと私の三百六十代のおばあさんに当たるポン子さんとが住んでおりました。二人は幼馴染の恋人同志で将来を誓い合った仲でありました。ポン子のお父さんは彼女の優しさに比べ余りにも頑固でありました。二人の仲を異種族であるとの理由から決して許そうとはせず、かえって二人の仲を割こうとしました。若い二人が睦まじく話し合っているのを見た時に彼はそのコロコロした丸い身体からポツホツと湯気を立てて怒りました。コン吉さんは一人寂しく立ち去りました。彼はその事については一言も弁解出来ませんでした、それ程彼は純情だったのです。それ以来ポン子のお父さんは一層厳重に二人を逢わせない様にしました。若い二人は悶々の日を送り迎えしていましたが或る夜コン吉さんは悩ましさにたえかねてポン子さんの家の近くまで忍び寄ったのです。丁度その時は中秋の明月の頃でポン子は縁に出て月を眺めてはコン吉さんの事を思って涙にくれていました。コン吉もポン子のやつれた姿を見て憐れに思い涙を流しましたがその夜は次の逢う日を約束して帰りました。そうして何度かの楽しい逢引きを続けておりましたが、これも遂には父に見つかる所となり、ポン子さんは可哀そうに、一室の中に監禁されてしまいました。コン吉さんは悲しくて堪りませんでしたのでポン子さんの家の廻りを来る夜も来る夜もコンコン鳴き鳴きぐるぐると廻っておりました。ポン子はコン吉さんの鳴声だと判ったので何とかして自分がいる事を知らせたいと思いましたが合図する道具がありません。いろいろ考えた末、自分のお腹を叩けばポンポンと音がする事に気が付きました。以来コン吉さんが来てコンコン鳴き出すとポン子さんはありったけの力でお腹を叩きコン吉さんに知らせたのでした。コン吉さんはいつもその音を聞いては安心して帰って行くのでした。こうして雨の日も風の日もコン吉さんはポン子さんの許へ通いましたので、ポン子さんのお父さんもその熱情にほだされて遂に二人の仲をお許しになりました。二人の喜びはどんなであったでしょう。ですがポン子さんは何時も何時もお腹を叩いていたのですっかりそれがくせになり、子孫代々お腹を叩く習性がとれなくなってしまい、現在では狸が腹鼓を打つのは本来のものであり、当り前であるかの様に思われているのです。それにしても二人の仲はめでたしめでたしですね。

◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

「コーチ2年《

小笠原敦弘 

 昨年は満足すべき成績を収めることが出来ました。これも皆様のお陰によるところと深く感謝致します。しかし振りかえってみるに、春の出足はいつになくみじめなものでした。合宿に入る早々小川、平川、花沢等が負傷病気と練習が出来なくなり元気な者わずか4吊、これではしようがないから、解散してしまおうとさえ思った事がありました。しかしそれからはアタッカーとして一人残った砂川(FR)の練習に日を過ごしました。この結果が砂川があれだけ打てるようになり、去年のチームがあれだけの良い成績を挙げられたといっても過言でないと思います。小川が治らないまま全日本県予選をむかえ、千葉商、市川高の全力を尽くし捨て身でぶつかってくるその闘志と云うか気力におされ苦戦しましたが、優勝戦には、幸いに全員元気になり優勝(四年連続)することが出来ました。又、国体予選には前年度の轍を踏まないように、合宿の最後の日に予選の日を当て連日試合練習で過し、精神面にのみ気をつけました。そのかいあってか国体にも優勝出来ました。このようにして全日本(山口市)、国体(魚津市)と両大会に出場し、双大会に於て実力いっぱい悔いのない試合をする事が出来ましたことは、自分にとって、何よりの報酬でした。又去年の三年生は皆近年になくしっかりしており実によくやってくれました。このような三年生を送り出し、今年は三年生花沢君唯一人と部創立以来の事で花沢君は非常に大変ですが、二年生がよくやってをり、又大半が去年の全国大会にに出場経験をもっておりますので、若さにおける心配もあまりありませんので、五連覇をめざして頑張っております。皆様お暇の折には是非来校され御指導御鞭撻下さるようお願い致します。尚今年も引きつづき私が見るようになりましたのでよろしくお願い申し上げます。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
 
<上位に出たのは>

-----飽田-----

△中学・高校男子
 ○優勝
  33年度迄   9回
  第11回全日本高校選手権予選
  第13回国体高校の部予選
 ○二位
  33年度迄   3回
 ○三位又は準決勝にて敗退
  33年度迄   6回

△高校女子
 ○優勝
  33年度迄   0回
 ○二位
  33年度迄   1回
 ○三位又は準決勝にて敗退
  33年度迄   5回

△クラブ(OB)
 ○優勝
  33年度迄   16回
  第7回都市対抗県予選
  一般選手権
  第13回国体県予選一般の部
  県綜合選手権
  第34回全日本綜合県予選
 ○二位
  33年度迄   17回
 ○三位又は準決勝にて敗退
  33年度迄   7回

△クラブ(OG)
 ○優勝
  33年度迄   4回
 ○二位
  33年度迄   1回
 (高校男子、高校女子、クラブ(OG)の記録は正式な記録にもとづかない為、誤記があるかもしれません。気がついたらお知らせ下さい。)

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

<何回試合したか>

◯クラブ(OB)
 17勝7敗 公式 対高校 2勝0敗  対一般 13勝3敗
       練習 対高校 1勝2敗  対一般 1勝2敗

 33年度までの累計
 151勝64敗2分 公式 対高校 11勝1敗  対一般 104勝44敗
         練習 対高校 24勝6敗  対一般 12勝12敗2分
☆お詫び
 (高校男子、高校女子、クラブ(OG)の記録がもらえなかったので、除外し次号にまとめて掲載します。)

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<昭和34年度日程>

◎日本協会
 9  都市対抗    4.26〜29    大阪
 9.6 実業団女子    6.24〜28    西条
 9.6 実業団男子    7.8〜12    松本
 9  大学女子    7.16〜19    大阪
 9  大学男子    7.23〜26    東京
 9  高校女子    8.6〜9    大分
 9  高校男子    8.6〜9    秋田
 9.6 教員男子    8.12〜16    金沢
 9.6 綜合男子    8.26〜30    前橋
 9  国体      10.26〜30   東京
 9.6 綜合女子    11.11〜15   大阪
 9  一般東西対抗  11.20、23   東京
 9  学生東西対抗  12.5〜6    大阪
 6  一般東西対抗  未定
◎関東連盟
  都市対抗南関東予選     4月12日    川崎
  高校女子関東選手権     6月6,7日   宇都宮
  実業団男子関東選手権    6月13,14日  東京体育館
  実業団女子関東選手権     同上      同上
  高校男子関東選手権     6.20〜21   甲府
  国体第二次予選(南?)    9.27     大宮
   同上    (北?)    9.20     前橋
  綜合男子選手権       10.3〜5    駒沢
  綜合女子選手権       10.10〜12   駒沢
○千葉県協会
  都市対抗県予選        3.29     千葉寺
  バレーボール祭        5.5     各ブロック
  高校男女選手権兼全日本予選  5.9,10    四街道
  一般実業団選手権兼全日本予選 5.24     千葉寺
  中学ブロック大会       5〜6月中   各ブロック
  高校男女全日本代表決定戦   7.12     千葉寺
  教員男子県予選        7.19     千葉寺
  勤労者県予選         7.26     千葉寺
  綜合男女全日本県予選     8.2      四街道
  ジュニア大会         8.3,4     四街道
  国体高校男女予選       8.23     千葉寺
  国体一般予選         9.6     千葉寺
  高校定時制大会        10.4     三高,商高
  6人制県下選手権       10.18     千葉寺
  高校男女新人大会       11.8      千葉寺
  千葉県綜合選手権       11.15     千葉寺
  審判講習会          3月中旬    未定

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<昭和33年度役員>

○現役の部
 
◇女子
  主将 浅水夏子  マネージャー 石山君子
 ◇男子
  主将 花沢 誠  マネージャー 村松芳顕
○クラブ
 
◇女子
  主将 石橋孝子  マネージャー 将司綾子
 ◇男子
  主将 永盛昌敏  マネージャー 飽田英世、小川寿三郎
 県バレーボール協会理事 山賀繁夫
 市体育協会バレー部理事 宇佐見武男

♧  ♧  ♧  ♧  ♧  ♧  ♧  ♧  ♧  ♧

<お知らせ>


○皆様御承知の通り、昭和26年4月より本年まで8年間の長い間、船橋高校の部長あるいは監督として指導下さった田中宗男先生が、2月3日故郷福岡市の教育委員会保健体育課の指導主事として栄転されました。
 現住所 福岡市新大工町南部9番地

○中 尾 学氏  東京中央郵便局へ転勤
○平川 孝男氏  (住所変更) 現住所船橋市本町1の1189(中村荘)
○金子 一男氏  国策パルプ工業KK中央研究所へ転勤
○小笠原博司氏  文秀堂KKへ転勤
○田中たけ子氏  4月10日に結婚されました。新居は千葉市本町三丁目(大和橋際)
         中村洋傘店 電話 千葉(2)2785

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♯♯♯♯♯編 集 後 記♯♯♯♯♯

 まず、初めに発行が大変に遅れた事及び満足なる編集ができなかった事をお詫び致します。色々と事情があったのですが、敢て弁解は致します。新堀氏、田中氏、伊井氏の諸先生方の寄稿をはじめとして寄稿して下さった方々に心から感謝します。33年度は高校男子の全日本出場、国体出場あるいはOBの初の全日本綜合出場と大活躍しましたが、意外に寄稿が少なく、さびしい限りですが、現役クラブが一団となって、努力してゆきたいと思います。最後に多数の方々の協力を得た事を感謝すると共にお礼申し上げます。                     

(飽田 英世 記)



 
     昭和34年6月10日 印刷発行
       編集者       飽 田 英 世
       発行者    千葉県立船橋高等学校
                 バレーボール部
                船 橋 高 校 ク ラ ブ
       印刷者     佐 々 木 忠 市
               船橋市本町4-1800
                  電 5125 

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